
9月4日、日曜日、ふと思い立って武雄市に出かけました。
まず、めざしたのは武雄神社の森にある大楠です。樹齢3000年以上と言われている日本で7番目の巨木です。3000年前といえば、当たり前ですが紀元前10世紀!縄文時代の終わり頃と弥生時代の始まりが交錯していた頃と思われます。佐賀は、日本で最も稲作が早く行われていた地域、大楠はその時代から今日まで生き続けていることになります。
神社の境内を抜け、竹林の小道を進んでいくと、すぐ大楠の前に着きます。
圧倒されます。息をのみます。とにかくデカイ。
周囲の森全体を従えるかのように、枝葉が天空に向かって翼を広げたように伸び、ゴツゴツした太い幹ががっしりと大地を掴んで立っているようです。幹には大きな空洞がいくつかあり、見つめているとそれが意志や表情をもつ何者かにも見えます。
大楠の前に、たったひとりの僕です。自分がとんでもなくちっぽけに感じられました。
私たちの国は”なにかあったらどうすんだ症候群”にかかっています。この症候群は社会に安定と秩序をもたらしますが、その副作用として社会の停滞と個人の可能性を抑制します。」
その日の朝、ふと目に飛び込んできた陸上競技の元オリンピック選手でもあった為末大さんの言葉です。もちろんこの言葉の背景には、コロナウイルス感染拡大の2年余が重く横たわっています。
為末さんはまた、今年の1月に書いた「note」に『子どもたちの未来を一番に考えませんか』と題して、提言をおこなっています。
①社会全体として「子どもの未来を最優先する」という共通認識を持ち、トレードオフがあった時は、子どもが大人のために我慢するのではなく、大人が子どものために我慢する。
②感染対策をした上で行われた子どもの教育に関わる施設やイベントでは、感染しても責任を問わない。
③子どもの学びを極力止めないという前提で、何ができるかを考え現実的に機能するルールをつくる。
この2年間、「なんかあったらどうすんだ」の一言で、どれだけ子どもや若者たちの機会が奪われてきたことでしょう。コロナ禍における大人の2年とは違う、子どもの2年の大きさ、若者もですが、そのことに想いを寄せた素晴らしい提言だと僕は思います。しかし現実はどうか。秋になり新学期になれば、学生の登校により感染拡大リスクが増えるなどと取り沙汰されています。為末さんの提言は社会に届いていないようです。
海外に目を向けると、ヨーロッパ諸国では、行動を制限していた法的規制は次々と取り払われています。他方、日本は法的規制ではなく、「自粛」、「お願い」を基本に対応してきた。だから、周りをキョロキョロ見ながら、「なんかあったらどうすんだ」ということで、結局自分からは何もしない、無難な方を選択する。法律の解除という明確な基準がないから、なかなかやめられないのです。
現在もさまざまな問題で、もどかしいことが多く、自分の判断や意見を堂々と述べることなく、ひたすら周囲の空気を読み、失敗しないように批判されないように動くことがあまりにも多すぎないでしょうか。
僕たちは3年も経たないうちに、またずいぶんと小さくなったのではないか。大楠を目の前にしてそんなため息のような感情が芽生えました。
大楠の後に立ち寄ったのは、図書館。

図書館にいると、人類のこれまでの膨大な知の集積に圧倒され、自分の知識なんていかに小さなものなのか思い知らされる。つまり、人間が謙虚になれる場なのです。
武雄市図書館は、すべての世代の市民に愛されることを考え抜いてデザインされた素敵な場所です!まるで本の森の中の森林浴のように、赤ん坊からお年寄りまで、市民がたくさん集い、本を読み、勉強している。多種多様な学びが合わさって生まれる知の生命力をまざまざと感じさせてくれます。
「なんかあったらどうすんだ」症候群は、ただ何も起こらないことを願うひ弱な精神でしかない。何かを変えたいという試行錯誤を恐れ、押さえつける退化の思想でしかない。この国が、さまざまな大小の未知の事態に対して、顔を見合わせながら、結局手も足も出ないようになってしまうことを危惧します。
なんかあったら?
そう!なんかある、きっとなんかある、その前提から出発して、挑戦することに価値がある。やってみなければわからないからやる。そんな人たち、特に若者の全力でのジャンプを全力で応援する日本にならなければ、未来は見えてこないと思います。
あらためて、学びの位置につこう。
ところで、ドアノブにサインプレートをかけました。「O P E N」と書いてあれば、学生のみなさんも、ノックなし入ってきても構いません。歓迎します。
